全国司所長会議
いけばな行事 人の和が次の大きな輪を創る!
全国司所長会議 3月の大覚寺
2010年3月9日(火) spectator:8339
- 早春の「大沢の池」に水鳥が遊ぶ。
- 大覚寺表門
全国より嵯峨御流116司所から司所長が京都大覚寺に集まり、年一回の司所長会議が行われました。
嵯峨御流は、大覚寺に華道総司所を置き、全国116司所そして世界に20ある支部・司所を統括しています。
当流は家元制ではなく、大覚寺のご門跡を総裁猊下に仰ぎ、理事長、華務長、顧問、参与などの役職は互選されて運営されています。
- 明智門
いけばな教育研究機関として「華道芸術学院」「いけばな文化総合研究所」が置かれ、「華道専門学校」があります。
また、大覚寺は学校法人「京都嵯峨芸術大学」を運営して文化教育に力を入れています。
会議は午後2時から始まるので、毎年午前中は京都市内を散策するのですが今年は愛宕山に雪景色が見られるほど寒く、凛とした空気の中、久しぶりに大覚寺内をゆっくり巡って見て新たな感慨に浸ることが出来ました。
- 寺内を流れる有栖川
そこで、改めて3月の大覚寺について紹介してみたいと思います。
京都に平安京(794)を造営された桓武天皇の第二皇子、神野親王(第52代嵯峨天皇)は、この地に別荘「嵯峨院」を造られました。その名は「日本後記」に出てきます。
寝殿造りは池が配置されますが、この嵯峨院の池は周囲約1kmの池泉回遊式の庭湖と呼ばれたスケールの大きいもので中国の洞庭湖を模して造られました。
- 史跡 名古曾の滝跡
滝殿には豪快な石組みの滝がほとばしり鑓水が庭湖にそそがれていました。
ここが我国ではじめて造られた本格的な寝殿造の苑庭となったのです。
この池は今は大沢池と呼ばれて、池の周りは市民の散策コースであり、また、テレビや映画の時代劇でおなじみのロケのメッカになっています。
- 大沢池の石碑
嵐山から小倉山、そして愛宕山などの山々が三方を取り囲み、池の東側にはのどかな田園風景が今も広がり、広沢の池まで見通せます。
大沢池や広沢池は今日でも観月の名所で有名です。
松尾芭蕉もこの地で「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」と俳句に詠みました。
広沢の池の右の小高い丘に嵯峨天皇が座られて京の町を遠望されたという国歌に歌われる「さざれ石」があり、そのふもとの道は国歌の歌詞から「千代の古道」と呼ばれています。
- 嵐山、小倉山、雪の愛宕山と渡月橋。
また、嵐山のシンボル渡月橋は、向こう岸の法綸寺に渡るため、嵯峨天皇の命により架けられました。
その橋を境に保津川、大堰川、桂川と名を変えて流れる風光明美なこの地は貴族たちの狩猟の場であり、春は桜、舟遊び、小倉山の紅葉と雅客文人の華やかな社交の場でもありました。
そして、今の天竜寺のあたりに嵯峨天皇妃の壇林皇后が日本で初めて教育機関としての今でいう学校を建てられたことが記録されています。
嵯峨野と呼ばれるようになるのは天皇が崩御されてからのことですが、渡月橋のたもとに大覚寺の石柱が立っていることから嵯峨野一帯が嵯峨院だったことが偲ばれます。
- 大沢池畔の梅園
- 天神島の石碑
嵯峨天皇は日本文化の祖ともいわれ、学校の創設や書や文学の興隆をおおいに奨励されています。
天皇は、文章は経国の大業であるとし、唐を手本としながら日本独自の文化国家をめざしたのでした。
嵯峨天皇の命で編纂されたものに「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」の漢詩集。
- 大沢池の庭湖石
日本書記から3番目となる国史「日本後記」、五国史をまとめ、分類した「類聚国史」(菅原道真編纂)があります。
平安時代の日本文化の愁眉は嵯峨天皇と弘法大師の出会いにあったかと思います。
お二人は橘逸勢((空海と遣唐使船で同行、壇林皇后の従兄)と共に日本三筆としてその名をとどめます。
- 大沢池の菊ヶ島
天皇は弘法大師空海を「海公」と称されました。空海先生とお呼びになられたのでした。
天皇は神護寺に住まわれていた空海のために嵯峨院の中に五覚院を造営して丁重にお迎えになられました。
空海は、かの平家の嫡流、六代御前が捕らえられた菖蒲谷を通って高尾から足しげく嵯峨院に通われたことでしょう。
- 大沢池畔の石仏群
- 唐 門
そして、天皇より高野山、東寺を下賜され、真言密教の一大聖地の基盤ができていったのです。
経国集に空海と茶を飲み別れを惜しまれた天皇の漢詩があり、大沢の池に浮かぶ天神島にその詩の石碑が残されています。
また、池のほとりに建つ「望雲亭」と名付けられた茶室はこの漢詩の文章に因みます。
- 明智門と明智陣屋
菅原道真が大覚寺の別当職(長官)であったことから、道真の上奏によって嵯峨院が大覚寺に改められました。天神島の名はこの道真に由来します。
開山は嵯峨天皇の孫にあたる恒寂法親王です。
ここ大覚寺から、皇族が門跡となる最も格式の高い門跡寺院の歴史が始まりました。
- 有栖川
大沢の池には天神島ともう一つの島菊が島があります。
天皇が舟遊びをしてこの島に咲いた菊を手折られて瓶にいけられたことから、菊が島と呼ばれるようになりました。
天皇が花をいけられた記述は「類聚国史」にあり、これが我国の文献に最初に現れるいけばなの記述です。
- 五大堂
また、嵯峨天皇がお茶を飲まれたのも「日本後記」による記述が我国における最初です。
それに、音楽も愛され帝自ら筝、笛、和琴などの楽器もよくされたとあります。
このような事跡から、嵯峨天皇は当代第一の文化人であったことがうかがわれます。
- 右近の梅と唐門
嵯峨天皇の時代「薬子の変」を制圧して以後目立った政争は起こりませんでした。
天皇の権威を強化するため、天皇直属の秘書官である「蔵人頭(くろうどのとう)」や宮廷の警護官「検非違使」を設置。
貴族政治の基本となる法令「弘仁格式」が発布され、現在に続く五節句などの年中行事(五節会、五節供)もこの時期に定まりました。
- 心経前殿
花鳥風月をこよなく愛された天皇は弘仁3年(812)『日本後紀』に神泉苑にて「花宴の説」を催したとあり、これが記録に残る最初の「桜」の花見です。
この花宴も天皇によって定例化され、これ以後、花見といえば桜となり、やがて日本を象徴する花となっていきます。
大沢池の畔を歩いていると春を待つ桜の蕾に嵯峨天皇の想いが重なります。
天皇には52人のお子様がおられました。その多くを臣下に出されて「源」姓を与えます。歴史を彩る源氏の生みの親は嵯峨天皇であります。
(父の桓武帝は60数名のお子様がおられ、臣下降籍されたお孫様に「平」姓を与えられました。源氏、平家の名はこの父子により誕生します。)
天皇在命中の32年間は大きな政争や戦乱のない日本史上まれな平和な時代を築かれました。
そこに嵯峨天皇が国家の家父長的な大きな存在としての強力な真のリーダー像をみることができます。
池の奥まったところに史跡「名古曾の滝」跡があります。嵯峨院の滝殿の遺構です。
嵯峨天皇が亡くなられてから二百年後に、衰退した大覚寺を訪れた藤原公任がそこで「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ 」と詠みました。
- 唐門と舞台
この百人一首にも詠まれた和歌からいつしか滝跡の名称となりました。
また、紀友則は菊ガ島を見て「ひともとと おもいし菊を 大沢の 池のそこにも たれかうえけん」と詠んでいます。
その後の藤原氏全盛の世にあって嵯峨天皇の御遺徳をしのんでの二首ではなかったかと、私には思われるのです。
- むらさめの廊下
鎌倉時代、大覚寺中興の祖として蒙古襲来のときの天皇だった第91代の後宇多天皇は上皇となって大覚寺門跡になられ、大覚寺で院政をしかれます。
その後、大覚寺は何度か戦火にみまわれ、上皇が再興した広大な大伽藍もわずか15年で焼失したといわれます。
- 正宸殿
後宇多法皇は一芸に秀でたものに僧の階級に準じた「永宣旨」を与えられました。
これが今日の「許状」制度の元となっており、明治維新までいけばなも流派を問わず大覚寺から各流派に称号として授与されていました。
今日では、嵯峨御流だけにこの制度が残されています。
- 正宸殿 お冠の間
鎌倉末期の南北朝時代、南朝方を「大覚寺党」と称しました。これは大覚寺が亀山天皇、後宇多天皇親子の皇統の御所となったからでした。
今でも旧嵯峨御所大覚寺とするのはこのためです。
室町時代に入り、この60年もの苦難の歴史にあの金閣寺を建てた足利義満の仲介で講和が成立し、一系の皇統に戻される儀式が取り行われました。
まさにその歴史的な舞台となったのが、後宇多上皇が政務を執られていた現在の大覚寺正宸殿の上段の間(お冠の間)だったのです。
越後の虎と呼ばれた「上杉謙信」も上洛して天皇に謁見するため、まず、大覚寺門跡義俊猊下に拝謁し太刀などを寄進しています。
戦乱で荒廃した大覚寺を織田信長、豊臣秀吉は寺領を安堵し寄進して保護しました。
- 後水尾天皇に徳川家から嫁がれた東福門院の住い「宸殿」
江戸時代初期、第108代の後水尾天皇は年に三十数回も今日でいう「いけばな展」を催すなど、いけばなの振興に大きな貢献をされました。
大覚寺の門跡に伯父の空性法親王や弟宮、親王、御孫と親族が相次いでなられた関係から、後水尾天皇との縁が深く、大覚寺でもいけばな展が催されていたことが伺えます。
境内の「安井堂」に後水尾天皇の木像が宸殿の方を向いて安置されています。
- 宸殿 牡丹図の襖
徳川家から後水尾天皇に嫁がれた東福門院(二代将軍、秀忠とNHK大河ドラマ放映の「江」の五女)の住居だったのが現在の大覚寺の宸殿です。
桃山時代を代表する絵師、狩野山楽の牡丹図や紅梅図が室内を豪華に飾ります。
- 心経殿
弘仁9年(818)日本中に疫病が蔓延したとき、嵯峨天皇は弘法大師のお勧めにより、紺紙に金泥で一字三礼して書かれた般若心経が大覚寺の心経殿に保管されています。
その直後に疫病が収まり、この一件から心経信仰が広がることになりました。
奈良の隅寺心経の国家鎮護のためから、日本国民への慈愛や祈りの般若心経となったのです。
この平安初期の歴史的事実により大覚寺は般若心経の根本道場として、多くの人々が写経に訪れる場となりました。
嵯峨天皇自筆のその般若心経は60年ごとに宮内庁立ち合いでご開帳されます。
かつて、それを眼の前にして、嵯峨天皇や弘法大師をとても身近に感じた瞬間、背筋を電流が貫くような衝撃的な感動を受けたことを思い出します。
建物はウグイス張りの回廊で結ばれて、お寺というより簡素な寝殿造りの様式を供え、源氏物語の世界にタイムスリップしたかのようなたたずまいの嵯峨野大覚寺は、今も昔も変わらない魅力となって文学や歴史のうえに登場します。
そして、嵯峨天皇の我国の繁栄と文化国家をつくるという御心がここ大覚寺において1200年の時を超え21世紀の今日に受け継がれているのです。
いけばな嵯峨御流はこの歴史的背景を源流にして生まれ育ってきた「いけばな」なのです。
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